大森貝塚前

JRの京浜東北線大森駅』の西口から、右手に進み、三王口の交差点を過ぎ、NTTのビルの前まで行くと、其の前の歩道からこんなタイルが見られます。

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【日本考古学発祥の地】である《大森貝塚》です。大森貝塚大田区と品川区にまたがる縄文後期から晩期にかけての遺跡です。
学校の授業でも『大森貝塚』については習ってますよね。
アメリカ人の動物学者「エドワード・シルベスター・モース(Edward Sylverster Morse 1838~1925)」の発掘した遺跡ですね。元々、腕足類生物の研究のために1877年(明治10)来日したときに、6月19日横を走る横浜から東京に向かう汽車の窓から貝塚を発見しました。現在の東海道線と並行する京浜東北線です。
モースは、生物学を教えることになった東京大学の教え子たちと同年9月頃から同貝塚を発掘しました。さらに1879年には日本初の発掘報告書である“Shell Mounds of Omori”を出版。
博士の大森貝塚の発掘は日本初の学術的発掘であり、調査報告書の発行も初めてのことでした。
このことから大森貝塚は「日本考古学発祥の地」と呼ばれています。
モースたちの発掘した大森貝塚の出土品は国の重要文化財に指定され、現在東京大学に保管されています。品川歴史館では、その中で代表的な資料9点のレプリカを展示しています。

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この奥、階段を降りた所に碑があります。しかし…このすぐ前には、、、、、

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ハイ~、コレは以前に別ブログでも説明したのですが、少々ややこしいのです。マァ先ずは舗道のタイルイラストを楽しんで貰いましょうか…ネ。

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土器のイラスト。

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そして、、、、、本来なら貝塚には関係ないと思いますが…

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三葉虫や…

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始祖鳥や…

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更には

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恐竜類

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さてと、コチラは『大森貝墟碑』への入り口なのです。
現在、大森貝塚に関する石碑は品川区側の『大森貝塚遺跡庭園内』と、大田区側のこの場所の2ヵ所にあるンです。前者は「大森貝塚」と呼ばれていますが、コチラは「大森貝墟」と書かれています。貝塚碑は1929年、貝墟碑は1930年に相次いで建てられたものです。
何故こんなややこしい事になっているかというと…モースが論文に発掘場所の詳細を書かなかったことが原因の一つ。
貝塚発見の報告文書には所在地が大森村とだけ記述されていたのです。
このため発掘地点について長い間、品川区説と大田区説の2つが存在してしまいました。
現在では複数の調査により、当時の東京府が大井村字鹿島谷(現在の品川区大井6丁目)の土地所有者に調査の補償金を支払った文書が発見されたことと、貝塚碑周辺の再発掘で貝層が確認されたこと、そして貝墟碑周辺では見つからなかったことから、現在ではモースが調査したのは品川区側であったことがわかっています。その為この地を発掘地点とする根拠はもはや失われているため、保存公開の扱われ方も大森貝塚碑とは差が開いてしまったのです。誰も見向きもしないンじゃあないかな(笑)。
さてさて…、ココで、先程の案内板にあった品川区にある遺跡ですが、、、、、
モース博士が発掘した大森貝塚は、現在は『大森貝塚遺跡庭園』となっています。

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ここを発掘したエドワード・シルベスター・モース(Edward Sylverster Morse 1838~1925)は、アメリカ人の動物学者です。腕足類(わんそくるい)という生物の研究のため、1877年(明治10年)に来日した折りに、偶然電車の窓から(イヤ…当時は列車ですよね)大森貝塚を目にし、発掘しました。

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僅かまだ130年くらいしか経っていないんですよね。
この発掘は日本で初めての学問的な遺跡の発掘でした。
また日本で初めて「進化論」を講義したのはモース博士。
『縄文』という言葉も、博士の『コードマーク』という語を訳したものです。
大森貝塚遺跡庭園は、品川区が大森貝塚碑付近の土地に建設しました。大して広くはない公園です。右手に遺跡の発掘跡があります。
庭園内には貝層の剥離標本をはじめ、学習広場・体験広場があり、縄文時代大森貝塚について学習できるようになっています。

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◇開園時間:7月・8月> 午前9時~午後6時
11月~2月> 午前9時~午後4時
その他の期間 午前9時~午後5時
◇住所:品川区大井6-21-6
◇アクセス:JR・東急大井町駅から東急バス「池上」「蒲田」行きで「大森操作場下車。
またはJR大森駅山王北口から徒歩5分。