谷保天満宮旧車祭 其の3…パレード Part2

谷保天満宮で行われた毎年恒例の旧車祭。やっと三つ目の記事。前記事に続いてパレード編。
イメージ 1えぇ~~と、車種の説明は、いつになるか判りませんが(笑)近くで撮した車体の時に、判る範囲で…書くつもりだったのですが、停車中の車の画像が無いかも…?しれませんので、取り敢えず判る車種の名前だけでも…。
でも走ってる車なので、もし…同定が間違ってたらご指摘下さい。
それでは…
最初は通称『大学通り』で横からと歩道橋の上から撮しています。そのあとは『国立駅』の前にあるロータリーで待ち受けることに。
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『パンサーカリスタ』です。超希少車。
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ロバート・ジャンケルが創立したパ英国のパンサーズカーによって製造されたこのカリスタですが、1981年に経営に行き詰まり存続の危機にさらされていました。現在は経営権が82年に経営権が韓国のジンド・グループに移っています。
1982年から90年にかけて、約1943台が世界で販売されました。現在日本にはおよそ5台ほどが登録されているだけです。エンジンはフォード製です。
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オースチン・ヒーレー3000MkⅢ』
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1959年に100系からモデルチェンジするかたちで登場したのがこの『オースティン・ヒーレー3000(通称ビッグヒーレー)』。
1963年登場のMk-III(BJ8という形式名で呼ばれることも多いです)。
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『C2型コルベット。原型となったレーサーモデルの名を取ってコルベットスティングレイ』と呼ばれました。スティングレイとは赤エイの意。名付け親は開発担当者の一人であるビル・ミッチェルで、これは彼が釣りを嗜んでいたことに由来するといわれています。
販売が開始されたのは1963年から。オープンモデルのみのラインナップだったC1型と違い、クーペをメインに据えることとなりました。特徴的な独特のエッジの立った独特なスタイリング。特に1963年に生産されたもののみが有する「スプリット・ウインドウ」と呼ばれる、ルーフからリアエンドに向かって走るフレームによって二つに寸断されるリアウインドウを持ったモデルは、現在でも人気があるようです。また、C5型まで伝統となった、本来とは逆方向から回転する構造を持つリトラクタブル・ヘッドライトが採用されたのは、C2型が最初で、このヘッドライトを備えたモデルは1964年に登場しました。

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『シボレー・ベル・エアー(Chevrolet Bel Air)』は、GMグループのシボレー部門で1953年から1975年まで生産され、カナダに生産拠点を移して1981年まで生産が続けられました。
インテリア・カーペット、ハードトップのクロームのヘッドライナー・バンド、フロント・フェンダーの突き出し、クロームの窓枠、フルカバーのホイールが特徴です。

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マツダキャロル360』マツダの前身の東洋工業により1962年(昭和37年)に発売された360cc車。当初は2ドアが、翌年の1963年(昭和38年)にデラックス仕様車の4ドアが発売されました。軽自動車初の4ドアセダンタイプです。1970年まで生産されていました。当時の軽乗用車市場を席巻していたのが、完全4人乗りの『スバル・360』でした。
マツダは当時『R360』を出していましたが、キャロルはこれに代わる主力車として開発企画されたものです。
当初1961年の東京モーターショーで700ccセダン『マツダ700』として原型が発表されたのですが、市場に出されたのはkの360ccの軽自動車としてでした。水冷 4ストローク 直列4気筒 OHVのアルミシリンダーエンジンを奢る異例ぶりで、それをリアに横置き搭載したリアエンジンの後輪駆動車です。
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いすゞベレット1600GT』車名の由来は同社の上級モデルであるベレルの小型版を意味する造語。
スカイライン台頭以前はサーキットを席巻した『いすゞ自動車』が1963年から製造した小型乗用車。1960年代の日本車を代表する車種の1つ。
特徴はなんと言っても設計製作が技術者主導で行われたという事。その為当時としては数々の新機軸を盛り込まれました。
外観スタイルは卵の殻をモチーフにデザインされた、丸みの強いコンパクトなもので、1トンを切る軽い車体重量を生かしてモータースポーツでも活躍しました。スポーツモデルにおいては日本初のディスクブレーキを採用しています。
また、四輪独立懸架による路面追従性の良さと鋭いハンドリングとを兼ね備えていたこともあり、当時の日本車では破格の運動性能から「和製アルファ・ロメオ」との異名がありました。
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『プリンス・スカイラインS50型1500デラックス。所謂2代目ですね。
1963年11月27日発売。1900cc以上の上級市場はグロリアに譲り、1500ccクラスの量販車市場を拡充するために、G1型直列4気筒OHV1484ccエンジンを搭載し、小型ファミリーセダンとして開発・投入されました。モノコック構造を採用したボディのバリエーションは4ドアセダンとステーションワゴンの2種類。1966年8月にプリンス自動車日産自動車と合併したため、車名をニッサン・プリンス・スカイラインに変更。当時の価格はGTが86万円。
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前記事で紹介した『アルファロメオ・ジュリア』

他の車と比較するとこの車の大きさが判ります。
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メッサーシュミット所謂『バブルカー』と呼ばれたタイプです。第二次世界大戦後のヨーロッパで庶民の足として普及したのがキャビンスクーター(バブルカー)。『バブルカーBubble car』は超小型自動車の一種で、小さな車体に対するキャノピーの大きさがバブル=泡、を連想させるため、こう呼ばれました。『イソ』『BMWイセッタ』などがあります。
メッサーシュミットは「雨を避けることが出来るスクーター」として発想されているため、カビネンローラー(キャビン付きスクーター)と名乗っていたのですが、これが広まってバブルカー全体を指す言葉として使われることがありました。

1952年にメッサーシュミット社の技師であった『フリッツ・フェンド(Fritz Fend)』と業務提携し、フェンドが設計した三輪バブルカーの『KR200(カビネンローラー((Kabinenroller)』。
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西ドイツ(当時)のFMRメッサーシュミットはその最大手メーカーで、もともとは航空機メーカー。1953年に前後タンデム2人乗りのKR175を発売し、その発展型KR200と共に大ヒット。エンジンはザックス製2サイクル単気筒で、初期型KR175は173cc、55年登場のKR200では9.7PS/5000rpmを発揮する191ccに拡大されました。
またプレクシグラスのトップを持つタイプとカブリオレがあり、後にロードスターのKR201や後輪を2輪として493ccの2気筒エンジンを搭載した、TG500(ティーガー)も登場。KR200は1964年まで生産されていました。自動車部門の採算が悪化したため、1964年にKR200 の生産を中止、自動車から撤退しました。